アニメカタルシス

アニメの感想についてちょいちょい書きます

『フォードvsフェラーリ』感想

これは車に興味ない人にも是非観て欲しいって思えるほど名作だった… 

ケンの奥さんが、ケンが本心を隠している事に腹を立ててあえて危険な運転するところの気性の荒さとか、ケンとシェルビーの喧嘩のくだりでシェルビーが加減して飲み物の缶ではなくお菓子の袋を持ってケンを殴ったりするところとか心情描写がとても細やか。


他にもフォードの役員が買収のためにフェラーリを視察する時の「マフィアが自由の女神を買いに行くようなもの」「どちらがマフィアか分からない」といったくすぐられる台詞回し等素直に楽しめる要素が多かった。


そのうえで、えぐり出し投げかけているテーマは素直に受け止めにくいところが絶妙だったのが本作だと思う。


「7000回転の世界」の詩が示す『アメリカ人とは何者か』という問いが全体に蔓延していて、それは挑戦者としてのシェルビーとケンにまつわるものではあったし、先代が「開拓」した道筋を受け継いだ2代目フォード社長にもかかってると思った。


当初そのモチーフは「挑戦を諦めないアメリカ人の開拓精神」って形でかかってくるものだと思っていたのだけど、結末を見るとその印象がガラッと変わってくる。企業体としてのフォードからは既に開拓者精神は失われたという強烈な批判が、イギリス人であるケンとの対比でより強く浮き彫りにされた印象を受けた。



響け!ユーフォニアム 8話由来のアイコン

遅ればせながら響け!ユーフォニアムを先日Gyaoで一気見。劇場版も観て来た。ここ最近観たアニメの中では一番ぐらいに楽しめた作品。
 
 
 
響け!ユーフォニアム第8話は特に印象的な描写が多く感じた。アイテムやシチュエーションにより複雑に象徴が用いられていそうだと思い考察していたところ、どうやら8話由来の象徴が他の話数でも度々登場しているようだ。
この記事は8話と他話数の描写とを比較し共通する象徴性を抜き出す事を目的としたものだ。
 
 

山登り/階段上り

 
8話 麗奈と久美子が山を登るシーンf:id:aioi7:20160516175616j:image
 
12話 滝先生と久美子が(久美子が忘れた携帯を取りに向かうのに)階段を上るシーンf:id:aioi7:20160516175652p:image
 
8話は山登りを通した麗奈との接近により久美子の内面に一番大きな革命が起きた回だ。それと同じように12話では久美子が「音楽が好きだ」という実感を音楽の先人である滝先生の言葉から見出す。
どちらも久美子が自分より先(上)を歩く人間から影響を受けているというテキストを読む事ができる。
 
 

靴による対比

 
8話f:id:aioi7:20160516180513j:imagef:id:aioi7:20160516180644p:image
簡潔に言うとこれは二人の生き方の違いを対比したものだ。久美子の歩きやすいスニーカーは彼女の「他者との衝突を避ける」ような特徴の生き方を「生きやすい」と説明している。逆に麗奈の“歩きにくいヒール”は彼女が周囲と衝突する事を恐れないという「生きにくさ」を象徴しており、更に久美子が麗奈の生き方を「美しい」と感じているのだという事を説明している。
 
 
11話f:id:aioi7:20160516181300p:image
トランペット2年の吉川優子が夏紀先輩から麗奈に何かする気かと詰め寄られるシーンの直後のカット。これは彼女が本当に麗奈に対して道を外れたような行為をするか(=外履き)、そうせずに道の内に収まるか(=上履き)という二つの生き方の間での葛藤であるように思える。
 
髪留めとポニーテール
8話f:id:aioi7:20160517070712j:imagef:id:aioi7:20160517070929p:imagef:id:aioi7:20160517072236p:image
麗奈はユーフォニアムを背負って運ぶ時に髪を結ぶ必要があるのでシュシュを腕につけるという方法で携帯していた。
「周囲に流されたくない」と言う時のイメージ描写において、恐らく無目的であろうシュシュを手首につけるという「流行り」が表現されている。
この二つの描写には「流行りに乗る周囲」と「流されない麗奈」とを対比する目的があるのだろう。
髪留めによってポニーテールを結う事はその人物が「流されない個性」である事を示している。
 
1、13話f:id:aioi7:20160517071436p:image
1話の久美子は高校で新しく挑戦するために髪留めでポニーテールにする事で気合を入れている。しかし姉に「気合い入りすぎ」と指摘される事で、その意見に"流されて"しまい髪留めを使わなくなってしまう。
13話の久美子はコンクールに赴く前に髪型を再びポニーテールにするがこれはそれまでの流されやすい彼女と決別するようなニュアンスが込められている。
 
 
愛の告白で光に導く
 
8話f:id:aioi7:20160516184230j:imagef:id:aioi7:20160516182414j:image
暗い夜の山の上へ久美子を連れて来た麗奈がそこから久美子に"光る夜景"を見せる。その事で久美子の内面に変化を及ぼす。
 
12話f:id:aioi7:20160516183106p:imagef:id:aioi7:20160516183212p:image
 
久美子に弱気を吐く麗奈。その姿は影の中にある。対照的に光の中にいる久美子は麗奈に「愛の告白」をする事で麗奈を光の中に導く。
 
 
エリア内での秘密の共有
 
8話f:id:aioi7:20160516183502j:image
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ひとつの"屋根の下"で二人の共有する「中3の送別会で吹いた曲」を奏でる。この回麗奈の野望という秘密が二人に共有され、奏でる曲がそれを象徴している。
 
10話f:id:aioi7:20160516184817j:imagef:id:aioi7:20160516184810j:image
8話と同じように屋根の下で、麗奈が「滝先生の事が好きだ」という秘密を漏らす。
"屋根"は二人が秘密を共有できる精神的な領域を示したものだろう。
 

幾原邦彦講座(朝日カルチャーセンター新宿) メモその2

最初期に読んだ少女漫画は萩尾望都の「トーマの心臓」と弓月光の「おでんグツグツ」 学校の女の子と漫画の交換をして読ませてもらった "トーマの心臓"は(よく楳図かずおのホラーを読んでいたので)最初「心臓ネタか!」と思った(笑)
あと叔父(若い人で当時大学生)が彼女の漫画をよく家に持ってきてくれた その時読んで衝撃を受けた作品が「いつもポケットにショパン」 主人公の彼氏のお母さんとの確執が描写されていて「こんな事漫画でやるんだ!」と驚いた 少女漫画の広さと深さは、その頃の少年漫画と比べると凄い(少年漫画は殴りあいばかり) 70年〜80年代の少女漫画はかなり今の感性を作るのに重要な役割を担った

田園に〜は要約すると"僕探しの物語" 寺山の映画は(学生運動の前後で)あまり変わっておらず、ずっと僕探しをしている

村上春樹は最初は変な小説を書く人だなという印象を抱いていた 「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」あたりから読み始めた その内容は「学生運動の熱に浮かされていた自分達は(それが終わった)今の時代においてどうなってしまったのか あの時の熱は"夢"だったのか いやそんなはずはない、恐らく今が"夢"なのだろう」という彼の体験が反映されていて、「二つの世界(涅槃と現世)を行ったり来たりする」ようなストーリーが展開する

ピングドラムの頃の時期は村上春樹の「アンダーグラウンド」に衝撃を受けた 彼が自覚的にフィクションの力を試そうとしていた時期の作品 その目的は"当時代感"を探る事にあったのだろう それまで「なんとなく」で済ませていたものをアングラによって"意識的にチャンネルを変えた" 
それにより「60年代から途切れた20数年間を繋いでくれた!」と思った

99年のカタストロフ信仰や95年の新興宗教に変わる別の熱があった サブカルかと思われていたその感情はドグマとして、暗い形で世に出てしまった
95年の事件で作品に対するピュアな想いが汚された しかもその事にメディアはあえて触れないようにしていた 「メディアは全く動かないのだな」と思った

村上春樹はその世代(60年代)の人なのに自分達の罪から目を背けなかったのが凄い

この事で寺山の言っていた「映画は同時代体験」の意味が分かった フィクションは同時代的でないと意味がないのだと思った

村上龍の小説は(当時は)とても現代的で世間に与える衝撃が凄い その分時代が過ぎるとすぐ古くなった 
「コインロッカーベイビーズ」がそんな作品 子供が捨てられるという事は戦後からずっとあったらしいのだが、例えば駅などに置き捨てるというような方法だった "コインロッカー"自体が高度経済成長を象徴するような装置であり、その中に未だに子供が捨てられているという事に衝撃性がある

内容は双子の話し 弟は兄にくっついてばかりで、兄がしっかりしていた しかしある時弟には社会を征服できる程の特別な力が秘められているという事が分かる この"立場逆転"というような設定に惹かれた

戦場のメリークリスマス」は個人的に大島渚監督の最高傑作だと思っている 大島が自分の時代を総括した作品 二二六事件で死ぬつもりだった主人公が生き延びてしまい、ある西洋人との出会いが彼を深く動揺させる これは大島渚自身が「"学生運動を通して死のう"と考えていたが生き延びてしまい、その後の人生で流入してくる西洋文化から抗えない影響を受けてしまう」という体験のメタファーであると思う 西洋文化に対して憧れのような感情も、ある意味とてもピュアに描かれている作品

ブレードランナー」は作中に沢山日本企業の広告が出てくる それまで欧米は日本の事を"アジアの片隅の国"と思っているのだろうという印象を抱いていたのだが、意外に意識されているという事に驚いた 
藤津「実は原作(アンドロイドは電気羊の夢を見るのか)は当時の欧米が日本の電化製品の流入が問題視されていた時勢があり、その影響で日本企業が2019年の欧米を席巻している世の中を想定して書かれた小説らしい」
原作本は「まるで禅問答のようなタイトルだな!」と思いながら手にした 意味はよく分からないがテクノロジーの描写が凄かった その頃からインターネットの登場を予見していたほど
作中に共感ボックスというアイテムがある これを使うと例えば「石を投げられている男の気持ち」(キリスト教的考え方)が伝わる 当時はこういったある種の原罪が無いと精神を安定させられない不安定な社会であった事が、この描写から分かる

作中ではアンドロイドハンターがいる 人間とそっくりのロボットを区別する方法は「自分以外の動物に感情移入出来るかどうか」で分かる
ブレードランナーは原作に無い事をやっている映画なのだが、それは原作者のディックの作品に通底する文脈を意訳したものであり、それによりこの映画は原作を超えていると思う その文脈とは「作り物(イミテーション)が本物を超える瞬間が訪れる」というもの
「あるキャラクター(主人公?)は刑事から感情移入テストを受けるが、アンドロイドだと判定されてしまう
そのキャラがビルから落ちそうになった時、アンドロイドが助ける」という話が追加されている これが"人間のイミテーション"であるアンドロイド"が"本物の人間"を超える瞬間として表現されていて、素晴らしい

藤津「まとめの質問をします。時代と表現者の関係とはなんですか?」
80年代はバブルの時代 AKIRAのようにフィクションを通してビルがなぎ倒される"夢"を見れるのは、現実で"ビルは倒れないもの"という印象があるから成立している 神話があるから、それを壊す夢を見る事ができる サリン事件や震災が起きた事で、世の中の人々の感性も変わってきた

例えばフィクションの中に壁が出てく時に、それが示し合わせる事なく同時に複数の作品からモチーフとして登場する 現実の時勢が作り手の心理を抑圧し、それが無意識のうちに壁として表現されるのだろう
藤津「ユリ熊嵐にも(断絶の)壁が出てきますが、あれは意識したんですか?」
ユリ熊嵐の場合は狙った(笑)

他にも異世界に通じる門としての「ゲート」が描写される作品がある。これは現実のグローバル化やインターネットの普及とそれに伴う政治や物流の変化を暗喩
したものである。
藤津「アニメはそういうのが得意なんでしょうか?」
元々アニメはメタファーをやっていた 自分の作品も時代性を意識している

"ヤマト"の世界にはキャラクターに戦う「使命」があり、それは生きる意味があるという事でもあり、それはロマンチックな事だ  "ヤマト"の世界は選択肢の無い時代なのだが一方で「使命」があるという事は幸せな事でもある

学生運動は自分から見ても羨ましい部分はあった それは女性にモテたから 車でモテるとか難しい時代であった
若い人の壊したいというドグマは95年の事件に転嫁されたが、その意識もSNSの登場によって変わった部分はあると思う

藤津「残響のテロルナベシン監督も長い間背負ってきた気持ちを作品に反映させたのかも知れませんね」

95年の事件や東北の震災をきっかけに夢としての破壊衝動が機能しなくなった部分があると思う ピングドラムも東北の震災のちょうどすぐ後の事であり、かなり影響を受けた 元はもっとピカレスクな作品にするつもりだった 自分自身、ドグマを商売にするのに後ろめたさを感じてしまい、柔らかい作品に方向転換した

メディアは動かない 今まで60年代と95年つないだ作品というのは全く出てこなかったと思う 漫画の「20世紀少年」は少し取り上げていたかな

昔のコンテンツはメディアが上から降ろしてくるものだった 今は上がってくるものだと思う

クリントイーストウッド作品が好きだ 彼の最近の作品である「アメリカン・スナイパー」は『彼自身が晩年に入って今まで何をしていたのかを悟った』映画のように感じる
それは「俺の映画全部"銃"出てきてるじゃん!」という事 彼の映画は常に「銃を撃つか撃たないか」が話の中心に来ている それによって彼は「アメリカ人はおそらく銃を手放す事は出来ないであろう」という"原罪"に気づき、自分自身もその罪を背負ったアメリカ人であるという自覚をしたのではないかと考えた
クリントイーストウッド作品はよく政治的だと言われるがそんな事はない
藤津「むしろ神話的?ですよね」 (幾原うなづく)

表現者は常に評論のための作品とビジネスとしてのそれの間にジレンマを抱えていると思う








幾原邦彦講座(朝日カルチャーセンター新宿) メモ

幾原「まず記憶にある古い映画の形式はドラマ
時事は新聞の領域であり、映像で扱われてはいなかった」

TVが登場すると、そこにはニュースやバラエティ様々なものを映していたので同時代性があった
皇太子結婚の生中継が最たる例

幾原監督の一番古い映画の記憶は?
アニメ→空とぶ幽霊船
実写→東宝チャンピオンまつりの1本目の作品 怪獣大進撃? (うろ覚えらしい "怪獣総進撃"ではないとか)

徳島出身と言われているが?
徳島育ちではない 父親の仕事の都合で引越しが多くて地方に長くいた

親に連れて行ったものではなく自発的に観に行った初めての映画は日本沈没
(子供達の間で「日本沈むらしいぜ!」と話題になっていたとか)
73年〜週末ブーム
"戦後"のイメージを人々が忘れた頃に映画のディティールが焦土を想起させる
ノストラダムスも(読んではいないが)信じていた
藤津「99年に自分はどうなってると思いましたか?」
幾原「自分には子供がいると思っていた(笑) 子供に何を伝えようとか考えていたかな」

60年代は公害が問題になっていた ゴジラヘドラはそんな問題にピンポイントだった 60年代はとにかく川が汚い印象

70年には万博があった
その当時トラックにはねられ死亡する子供が多かった バイパス道路が無くて家の前を大型トラックが日常的に走っていて、危ないなという印象(交通戦争)

幾原「小学生の頃は宇宙戦艦ヤマトが始まり、それまでテレビマンガ、漫画映画だったものに初めて視聴者側の言葉としての"アニメ"が広がった」
藤津「その由来は当時ヤマトのプロデューサーが漫画原作ではなくオリジナル作品だから漫画と呼ぶのに抵抗があったためアニメという言葉を用いたから
幾原「テレビマンガや漫画映画は子供で卒業するものというような印象があった」
藤津「 アニメであるヤマトは若い人向けにモダンなイメージを付けて世に送られた」

幾原「ヤマトの時期がちょうど映像作品のディティールを考え始める時期でもある
あわせて洋画のジョーズが公開された その当時の映画はどんな怪獣や宇宙船が出るのだろうというようなある種イベントだった
ジョーズを観てから米映画のスケールの大きさに驚いた
ジョーズを皮切りにハリウッドに傾いてくる印象がある」
奇しくもジョーズ(怪獣)→スターウォーズ(宇宙船)のような流れ

幾原「この頃の自分にはまだ映像の仕事につくビジョンは無い」

幾原「万博はメディアジャックされているぐらいの印象 人生の公的のイベントの中で一番の盛り上がり ディズニーランドも無かったし
行った人達はみんな凄く疲れたとばかり言ってたので行かなくてよかった」
藤津「トイレが少なくて大変だったらしいですね」
幾原「未来都市のイメージが高度経済成長の熱とリンクしていたのも盛り上がりの要因の一つだろう」

60年代後半、ヌーヴェルヴァーグもTVの登場によって斜陽化していた頃
その頃のTVは若い人のためのコミュニティを作るような働きをしていた

70年代に入ると学生運動の熱は冷める
幾原「想像ですけど、サブカルというものは70年代から始まったのだと思う それ以前の演劇や映画は作り手にとって変革を促すための装置だった 楽しんだり評価するようなものではなかった そうなったものがサブカル なので60年代の人達とは熱量が違う」

この映画の監督、スタッフ達はまさに60年代の運動の人達 この映画の目的として俳優や女優に自分達の主張を代弁させていた 作り手側が自身の運動の時代を総括するために作った映画 制作途中の仮題は"日本対オレ"だったほど 映画の中で今度こそ日本に勝つというような熱があった 作品全体としてはその熱量が一回転していて、当時の主張に対する今の制作者の回答として「子供の駄々だった…」という自己言及が成されているので面白い エンタメでありロマンチックな映画

70年からはマニアックな映画(=評価を得るための内容のつまらない映画)が出てきた この年代にはメディアと若者との間にズレが生じていた 徐々に映画は客に媚びた内容のもの、ケレン味のある物に二極化していた そんな中で角川映画の登場は鮮烈だった 当時の流れとして映画興行はTVメディアを敵対視していたのだが、角川はTVスポットを毎日流したりと積極的にTVメディアを利用していた 代表作の"犬神家"はゲゲゲの鬼太郎にも通ずる土着的(村の因習等)な設定で、当時そうした価値観を古い物だと認識していた世間に不意打ちを与え、戦中〜戦後の日本の雰囲気を客に想起させた
当時TVメディアは戦中〜戦後を総括して語りたい機運があった

藤津「ヤマトは戦中派の大人と、真ん中の世代を飛ばして若者に受けた作品 真ん中の人達は戦争に絡めて観てしまい、楽しめなかった」

若者にとってヤマトは戦中〜戦後の日本と繋がれるファクターだった

"太陽を盗んだ男"はピンポイントに70年代版安保だった
幾原「個人的な印象だがベルばらの作者の池田さんも学生運動に身近な人だった その決着を漫画で付けようとしている 女の人が男装して→革命をおこそうとして→挫折する という流れは自分の体験を記したある種のメタファー」

79年にはその頃の時勢を反映した作品が二つ、「金八先生」と「テラへ」がある 60年代、若者が社会を攻撃する時代から、(偏差値教育の導入により)子供が大人に管理され仕分けられる時代になった "テラへ"にはSD体制という「大人からの評価で子供の価値が決まるようなシステム」があり、これは現実の偏差値教育をなぞらえたもの 『SD体制からはみ出る超能力者の少年が出現する 彼らは地球人と敵対しながら地球を目指す…』 ベルばらと同じように革命のロマンが含まれている
藤津「余談だが(テラへの作者の)竹宮さんは地方の学生運動の流れを見るために上京を1、2年遅らせたらしいです」

上野「幾原監督の作品によく学園を舞台に選んでいる理由はなんですか?監督にとって学校はどういった印象ですか?」
幾原「居心地の良い所ではなかった 中学〜高校は特に 大学はそうでもなかった 今にして思うと、それは自分が空気を読めなかったからだろう 70〜80年の頃は学生運動とは違う意味で(政治的でない意味で)学生が荒れていた 今の時代と自分が学生の頃は個人の個性を尊重せず、抑圧的だった 男女平等はなかったし、大人に選ばれて会社員になるというような将来しか選択肢になかった 暗にそこから溢れたものは不幸だと言われているようで怖かった 狭い時代だった」

その頃のメディアの状況は、キャスターに政治的意識が必須とされていた 今のように"自分"をだせなかった
上野「自己表現したいというようなことは無かったんですか?」
幾原「自己表現したいというのがサブカル感覚なんですよ」

80年代は糸井重里がスターだった 美術という言葉以外に現代アートやグラフィックという言葉の登場 それまでは絵画で食っていくのは一握りのすごい画家だけだった 広告ブームによりそれまでに無かった雑誌、TV、映画などのクロスメディアが起こり、力をうんだ

昔は今のようにインターネットが無いのでぴあやプレイガイドジャーナル等から映画の情報を得ていた
60、70年代の映画は昔のものとして80年代頃に観た 寺山映画も80年代

80年代の日本は60年代の運動の時代から10年の空白があったので、情報誌を頼りに映画を観ることでしか分からなかった 1本1本の映画が大切だった

はどこかの大学の学園祭の映研で観た 観た時は「ついに観たぜ!」 「こんな所でこんな映画観てる高校生は俺ぐらいだろう 俺のインテリ加減は凄い!」と思っていた 
寺山映画は分かりやすい 何度もテーマを口にする 寺山は学生運動に興味があったのではなく、その熱を利用して映画を作るエンタテイナーだった
寺山映画も自分達の時代を総括していた メディア人、ヒーローといったものを虚構にして面白がるというようにしていた "田園"を当時観た時はテーマはよく分からなかったが「パンチあるな」と思った

『書を捨てよ 町へ出よう』
は運動の終焉を描いている 


甲鉄城のカバネリ1話 二度見ピックアップ

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甲鉄城のカバネリ1話、個人的にはとても満足感の高いものでした。皆さんはどうでしたでしょうか?
さて今回の記事では個人的に見所だなと思うシーンを語りたいと思います。
(時系列順ではなく印象に残った順に挙げるのでまだ途中しか観てない方は一応ネタバレ注意です!)



まず最初に主人公達の住む顕金駅にカバネに制圧された一台の暴走した駿城(はやじろ:鋼鉄製の汽車)が突入してくるシーンです。このシーンから受けるのは「人間側の科学力の象徴である駿城が敵の手に落ちている事で人間とカバネのパワーバランスが崩れたイレギュラーな状況である」という印象です。本作はいわゆるゾンビパニック系ホラーに(大まかには)分類されると思うので、安心から恐怖への感情の急降下がポイントになります。そのため人間にとっての安息のエリアに急に不条理が来訪するこのシーンは最大の見せ場と言って良いでしょう。このシーンの中で特に注目したいカットが、駿城が橋につっかかり跳ね上がる所をカメラが回り込みながらスローモーションで全体を見せる所です。派手な動きを作りながらも3DCGにありがちなチープな雰囲気を排しているのが気持ちいいです。このような難しいカメラワークを実現できてしまうCGIやコンポジット等今のデジタル技術の高さが伺えます。f:id:aioi7:20160408123815j:image
追記)ちなみに渋谷のタワーレコードで開催していた甲鉄城のカバネリ展で掲載されていた1話の絵コンテによると、このシーンは洋画のスーパー8を参考にして作られているそうです。自分も観たことはありますけどディティールは思い出せないです。
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次に見るのは対照的に、カバネによってもたらされる恐怖に立ち向かう主人公生駒のパーソナルな部分です。ラスト数分前の生駒が貫き筒でカバネを撃退するパート、それに続いてカバネに噛まれてしまった主人公がとる行動、その一連の展開に引き込まれた方は多いのではないでしょうか。カバネに噛まれたという絶望的な状況にも関わらず諦めずに生き延びようともがく姿が荒々しく描写されていて心を打ちます。生駒役の畠中さんの演技も相まって共感と快感が強く作用する素晴らしいシーンですね。f:id:aioi7:20160408210545j:imagef:id:aioi7:20160408210551j:image



作画ファンとしてのピックアップ
ここからは少しマニアックな視点で紹介させてもらいます。

最初に注目したいのが無名の初登場シーンにて、無名が映った2カット目のけん玉で遊んでいる所です。ここのけん玉を支えている腕の上下、それに合わせたけん玉の上下が柔らかくて慣性が乗っているように描写されているため「玉を受け止めている」という情報がちゃんと伝わってきます。更に玉のバランスを取ろうとしているけん玉全体の挙動がとても写実的で上手いです。
この後のけん玉を振り回すシーンも面白いのですが個人的にはここが印象に残りました。


次に紹介するのは菖蒲様のお父様の乗馬しているカット。f:id:aioi7:20160408220618j:image(この画像は既に動いた後になります)正面を向いている状態から馬を操り後ろへ向き直ります。この時馬の動きが先にあり、それに遅れて上体が少し反ってからこの画像のような体制をとります。ここもしっかり慣性を感じる写実的な動きが成立していて上手いです。
この二つのカットは実際のけん玉や乗馬の動きをよく観察されて描かれたのではないかなと思いますね。

最後に無名ちゃんファンとしても選ぶ作画がラストシーン、回し蹴りで鳥居にぶっ刺さった下駄を抜こうとして、抜けずに諦める所です。このアニメを観ていて「この作画なんだか絵画チックだな」と思うようなシーンを何度も見かけなかったでしょうか。*1こういったカットはほとんどの場合主要キャラの顔がアップで映っていますが、この最後だけは足を映していて、特別な意図に感じます。(アップショット=魅せカットのような考え方か)激しいシーンが続く終盤でも、最終カットだけは静かに終わらせるという部分に侘しさと劇の終盤の寂しさが融和しているような良さを感じます。あと単純に足の描写にフェチを感じるので、スタッフのこだわりが(主に自分に)嬉しいシーン。

第1話で取り上げたかった内容は以上です。見返す時の参考になれば嬉しいです。

1話で満足した人へ、少なくとも3話まではこのクオリティの作品が続くので楽しみにしてください。

自分も早く見返したいです…!


*1:これは特効と呼ばれる処理によるところらしいです。役職名は『メイクアップアニメーター』とクレジットされているのだとか。

主人公は『みらい』でなく『りこ』? 魔法使いプリキュアテーマ推察

二人の性格の違い

OP曲の歌詞に『ヤバイよ!趣味バラバラ ノリちぐはぐ 性格真逆』とあるように「みらい」と「りこ」、この二人の性格は全くと言っていいほど違っている。みらいは実年齢は13歳ほどなのに熊のぬいぐるみが友達である事、服装のセンス等から平均より精神年齢が幼い事が分かる。逆にりこの性格は周囲に自分を認めさせたいという自立のような意欲を垣間見せる。
そもそもだが、二人は生まれた世界からして全く「別の世界」であり考え方や価値観が乖離しているのは当然のことかも知れない。


出会いのシーンが象徴するもの

第一話にはシリーズ全体の流れを示す意味合いが強い。 二人の出会いはみらいが落とした熊のぬいぐるみであるモフルンをりこが教えてあげる事により生じた。この一連のシーンが私にはとても意味深に感じ取れた。
みらいにとってモフルンはどういった存在なのかもう一度考えると、それは大切な友達である。しかしながら普通の中学生ほどの年齢の少女は、ほとんどの場合そういった子供の頃の"幻想や空想"を既に捨てている。みらいは未だにモフルンを大切にしている事から彼女が『空想に強く憧れを抱いており、魔法を非日常と結びつけている』事が分かる。
みらいと性格の離れたりこはどうか。彼女は魔法界出身の女の子であり、魔法を身近なものとして認知している。そんな彼女にとって『魔法がある世の中は現実の一部』であり、おそらく『空想への渇望が薄い』に違いない。
そんなりこがみらいにとって"空想の象徴"とも言えるモフルンが落ちた事を彼女に知らせたのは、『ただ二人が偶然出会ったというプロットを成立させるため』以外の意味があるように思えてならない。
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その後のシーンでも同じような描写がある。敵側のキャラクターであるバッティが出現させたヨクバールから逃げるため箒にまたがり空を飛ぶ最中、みらいがモフルンを離してしまう。しかしまたしてもりこはモフルンを守るため空中でキャッチする事を試みる。f:id:aioi7:20160229203647j:image
前述したように、みらいにとって空想が価値のある物でりこにとってはそうでない。りこがモフルンを守ろうとするのは「自分には存在しない価値を、相手にとっての価値として認める」態度だという事が分かる。

落下するりこの手をみらいがつなぎ、その後二人は魔法の呪文を唱える事で伝説の魔法使いプリキュアへと変身する。変身すると二人は、それ以前より少し大人びた見た目へと変化する。f:id:aioi7:20160229204851j:image
これはつまり「自分の中に無い価値観を受け入れる」という心的変化によって「大人へと成長する」事を暗示しているのだ。


この物語の主人公は

1話からシリーズ全体のテーマが読み取れたが、正にそのテーマが表面化している回が第4話である。りこははぐれたみらいを探す為に知識の森へと入る。その中は"動く本棚によって仕切られた迷路"のようになっている。f:id:aioi7:20160229204303j:image
この迷路はこの回でりこが自覚した「頭でっかちに考えすぎていて、なかなか行動に移せない」事の暗喩のように感じる。
りこはみらいの行動の中に自分を改善するヒントを見つけている。(="価値観が変化するきっかけ"になっている)
 本棚の空きスペースをくぐり、りこがみらい側にたどり着くのは"価値観の変化"を暗示しており、
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それが大人になるための方法だという1話で示されたテーマがそのままの形でなぞられている。このように、この物語は「りこが自分とは違う価値観に触れる事によって刺激を受けながら作用される成長物語」なのではないだろうかと考える。


初代プリキュアと比較して

この作品はたびたび初代プリキュアのオマージュが描写から散見される。初代プリキュアのテーマの1つに「ふたりは全く違うタイプ」という要素があり、価値観を共有する事が難しい仲である。魔法使いプリキュアはこれを更に強調する為にふたりを「全く別の世界の住人」であように設定したのではないだろうか。


今後の展開に期待する事

第5話は二人が衝突する事が予告により明らかになった。どのように価値観が衝突し、それを乗り越えて成長するのかに注目したい。


GO!プリンセスプリキュア テーマ考察


なぜプリンセスなのか?

そもそも"プリンセス"とはどういった意味か、なぜこの言葉は作品の中心的な部分に象徴として描かれているのか。私はプリンセスの「フィクションの中にのみ存在し、現実には存在しない」という性質に注目した。

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はるかの憧れの存在である"花のプリンセスは"同名の絵本の主人公である。彼女はフィクションの中の主人公として特別な地位にいる。しかしながらプリンセスプリキュア内の実社会には(トワという『異世界でお姫様』という例外もあるが)プリンセスが存在するような事はない。これは本作の舞台が"花のプリンセス"の世界より"私達の現実の世界"に近い事に起因している。

これにより"プリンセス"という言葉がプリキュア達を絵本(=フィクション)の中にのみ許された存在だという印象を強め、彼女らの人間性に「まるで物語の主人公のような存在」という印象を付与するように機能している。

プリキュアは魔法の力によって、戦うプリンセスへと一時的な変身を遂げる。f:id:aioi7:20160226181851j:image

この瞬間彼女達は「この物語の主人公である」事をより強く象徴化されているのだ。この事をまず定義してから次のテーマについても語りたい。


七瀬ゆいの存在

プリンセスプリキュア48話にて、プリキュア達の正体が一般人にばれてしまう。これにより一般人にとって自分達の身近な存在が、(魔法による変身という一時的なものではあるが)プリンセスという「物語の主人公の様に特別な存在」だった事が明かされる。

今まで夢を見る事の大切さを説いてきたプリキュア達だが、実は彼女らは一般人にとっての日常側に属する人物であり、その言葉に説得力を与えている。

しかし彼女達の正体が明かされるという工程が「変身が解かれることによって」ではなく、「その逆」である事により一般人にとっては驚きが優先され、前述したテーマを表現するためのシナリオを挿入しにくい形となっている。

そんな状況で活躍するキャラクター、それが"七瀬ゆい"だ。彼女はプリキュアを一般人としての視点である「物語の主人公の姿」だけでなく「普通の女子中学生としての姿」も共に認識していた唯一の人物である。

彼女が絶望の檻を一早く抜け出す事が出来たのは主人公であるプリキュア達の姿に憧れを抱きつつも、その姿を決して遠ざけずにいて、そのため絶望をはねのける事が出来たからだと推察できる。そんな彼女は自分と同じように、その他の特別でない人々に希望を持つ事の大切さと普遍性を提示するのである。

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メタフィクションの導入

メタフィクションとは、第四隔壁の打破であり、フィクションがノンフィクションをフィクションに見立てる表現技法である。】(ニコニコ大百科より引用)
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実はプリンセスプリキュアにもこの手法が用いられている。その目的は第四の壁(=観客と舞台を仕切る見えない壁)の打破である。

前述したように本作は作中に絵本が登場する。物語の中の別の階層にもう1つの物語を内包しているのだ。物語の"第1次階層"(プリンセスプリキュア)と、その中の"第2次階層"(作中のフィクション)という形で構成されているが、最終話のある描写によってこれが覆されている。

最終話のタイトル後、ある少女が「プリンセスと夢の鍵」という絵本を読んでいる。

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この絵本はプリキュアの活躍をモチーフにした作中のフィクションである。本来は「プリキュアの活躍」という第1次階層で起きている物語が第2次階層に変換され読まれているという異質な事が成立している。何故このような事が起きているのか。

それはつまりこの少女が第1次階層より更に上の第0次階層のキャラクター(=現実世界の我々)であるという事の"暗喩表現"なのだろう。これによって第四の壁が破られ、伝えたいテーマが視聴者に向けて直接発信される。

最終回の大人はるかは私達に向けて希望を語る。この手法のおかげで「ただ在り来たりにいい雰囲気を作って終わり」ではなく、しっかりとテーマを捻出させる事に成功しているのだ。