アニメカタルシス

アニメの感想についてちょいちょい書きます

幾原邦彦講座(朝日カルチャーセンター新宿) メモその2

最初期に読んだ少女漫画は萩尾望都の「トーマの心臓」と弓月光の「おでんグツグツ」 学校の女の子と漫画の交換をして読ませてもらった "トーマの心臓"は(よく楳図かずおのホラーを読んでいたので)最初「心臓ネタか!」と思った(笑)
あと叔父(若い人で当時大学生)が彼女の漫画をよく家に持ってきてくれた その時読んで衝撃を受けた作品が「いつもポケットにショパン」 主人公の彼氏のお母さんとの確執が描写されていて「こんな事漫画でやるんだ!」と驚いた 少女漫画の広さと深さは、その頃の少年漫画と比べると凄い(少年漫画は殴りあいばかり) 70年〜80年代の少女漫画はかなり今の感性を作るのに重要な役割を担った

田園に〜は要約すると"僕探しの物語" 寺山の映画は(学生運動の前後で)あまり変わっておらず、ずっと僕探しをしている

村上春樹は最初は変な小説を書く人だなという印象を抱いていた 「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」あたりから読み始めた その内容は「学生運動の熱に浮かされていた自分達は(それが終わった)今の時代においてどうなってしまったのか あの時の熱は"夢"だったのか いやそんなはずはない、恐らく今が"夢"なのだろう」という彼の体験が反映されていて、「二つの世界(涅槃と現世)を行ったり来たりする」ようなストーリーが展開する

ピングドラムの頃の時期は村上春樹の「アンダーグラウンド」に衝撃を受けた 彼が自覚的にフィクションの力を試そうとしていた時期の作品 その目的は"当時代感"を探る事にあったのだろう それまで「なんとなく」で済ませていたものをアングラによって"意識的にチャンネルを変えた" 
それにより「60年代から途切れた20数年間を繋いでくれた!」と思った

99年のカタストロフ信仰や95年の新興宗教に変わる別の熱があった サブカルかと思われていたその感情はドグマとして、暗い形で世に出てしまった
95年の事件で作品に対するピュアな想いが汚された しかもその事にメディアはあえて触れないようにしていた 「メディアは全く動かないのだな」と思った

村上春樹はその世代(60年代)の人なのに自分達の罪から目を背けなかったのが凄い

この事で寺山の言っていた「映画は同時代体験」の意味が分かった フィクションは同時代的でないと意味がないのだと思った

村上龍の小説は(当時は)とても現代的で世間に与える衝撃が凄い その分時代が過ぎるとすぐ古くなった 
「コインロッカーベイビーズ」がそんな作品 子供が捨てられるという事は戦後からずっとあったらしいのだが、例えば駅などに置き捨てるというような方法だった "コインロッカー"自体が高度経済成長を象徴するような装置であり、その中に未だに子供が捨てられているという事に衝撃性がある

内容は双子の話し 弟は兄にくっついてばかりで、兄がしっかりしていた しかしある時弟には社会を征服できる程の特別な力が秘められているという事が分かる この"立場逆転"というような設定に惹かれた

戦場のメリークリスマス」は個人的に大島渚監督の最高傑作だと思っている 大島が自分の時代を総括した作品 二二六事件で死ぬつもりだった主人公が生き延びてしまい、ある西洋人との出会いが彼を深く動揺させる これは大島渚自身が「"学生運動を通して死のう"と考えていたが生き延びてしまい、その後の人生で流入してくる西洋文化から抗えない影響を受けてしまう」という体験のメタファーであると思う 西洋文化に対して憧れのような感情も、ある意味とてもピュアに描かれている作品

ブレードランナー」は作中に沢山日本企業の広告が出てくる それまで欧米は日本の事を"アジアの片隅の国"と思っているのだろうという印象を抱いていたのだが、意外に意識されているという事に驚いた 
藤津「実は原作(アンドロイドは電気羊の夢を見るのか)は当時の欧米が日本の電化製品の流入が問題視されていた時勢があり、その影響で日本企業が2019年の欧米を席巻している世の中を想定して書かれた小説らしい」
原作本は「まるで禅問答のようなタイトルだな!」と思いながら手にした 意味はよく分からないがテクノロジーの描写が凄かった その頃からインターネットの登場を予見していたほど
作中に共感ボックスというアイテムがある これを使うと例えば「石を投げられている男の気持ち」(キリスト教的考え方)が伝わる 当時はこういったある種の原罪が無いと精神を安定させられない不安定な社会であった事が、この描写から分かる

作中ではアンドロイドハンターがいる 人間とそっくりのロボットを区別する方法は「自分以外の動物に感情移入出来るかどうか」で分かる
ブレードランナーは原作に無い事をやっている映画なのだが、それは原作者のディックの作品に通底する文脈を意訳したものであり、それによりこの映画は原作を超えていると思う その文脈とは「作り物(イミテーション)が本物を超える瞬間が訪れる」というもの
「あるキャラクター(主人公?)は刑事から感情移入テストを受けるが、アンドロイドだと判定されてしまう
そのキャラがビルから落ちそうになった時、アンドロイドが助ける」という話が追加されている これが"人間のイミテーション"であるアンドロイド"が"本物の人間"を超える瞬間として表現されていて、素晴らしい

藤津「まとめの質問をします。時代と表現者の関係とはなんですか?」
80年代はバブルの時代 AKIRAのようにフィクションを通してビルがなぎ倒される"夢"を見れるのは、現実で"ビルは倒れないもの"という印象があるから成立している 神話があるから、それを壊す夢を見る事ができる サリン事件や震災が起きた事で、世の中の人々の感性も変わってきた

例えばフィクションの中に壁が出てく時に、それが示し合わせる事なく同時に複数の作品からモチーフとして登場する 現実の時勢が作り手の心理を抑圧し、それが無意識のうちに壁として表現されるのだろう
藤津「ユリ熊嵐にも(断絶の)壁が出てきますが、あれは意識したんですか?」
ユリ熊嵐の場合は狙った(笑)

他にも異世界に通じる門としての「ゲート」が描写される作品がある。これは現実のグローバル化やインターネットの普及とそれに伴う政治や物流の変化を暗喩
したものである。
藤津「アニメはそういうのが得意なんでしょうか?」
元々アニメはメタファーをやっていた 自分の作品も時代性を意識している

"ヤマト"の世界にはキャラクターに戦う「使命」があり、それは生きる意味があるという事でもあり、それはロマンチックな事だ  "ヤマト"の世界は選択肢の無い時代なのだが一方で「使命」があるという事は幸せな事でもある

学生運動は自分から見ても羨ましい部分はあった それは女性にモテたから 車でモテるとか難しい時代であった
若い人の壊したいというドグマは95年の事件に転嫁されたが、その意識もSNSの登場によって変わった部分はあると思う

藤津「残響のテロルナベシン監督も長い間背負ってきた気持ちを作品に反映させたのかも知れませんね」

95年の事件や東北の震災をきっかけに夢としての破壊衝動が機能しなくなった部分があると思う ピングドラムも東北の震災のちょうどすぐ後の事であり、かなり影響を受けた 元はもっとピカレスクな作品にするつもりだった 自分自身、ドグマを商売にするのに後ろめたさを感じてしまい、柔らかい作品に方向転換した

メディアは動かない 今まで60年代と95年つないだ作品というのは全く出てこなかったと思う 漫画の「20世紀少年」は少し取り上げていたかな

昔のコンテンツはメディアが上から降ろしてくるものだった 今は上がってくるものだと思う

クリントイーストウッド作品が好きだ 彼の最近の作品である「アメリカン・スナイパー」は『彼自身が晩年に入って今まで何をしていたのかを悟った』映画のように感じる
それは「俺の映画全部"銃"出てきてるじゃん!」という事 彼の映画は常に「銃を撃つか撃たないか」が話の中心に来ている それによって彼は「アメリカ人はおそらく銃を手放す事は出来ないであろう」という"原罪"に気づき、自分自身もその罪を背負ったアメリカ人であるという自覚をしたのではないかと考えた
クリントイーストウッド作品はよく政治的だと言われるがそんな事はない
藤津「むしろ神話的?ですよね」 (幾原うなづく)

表現者は常に評論のための作品とビジネスとしてのそれの間にジレンマを抱えていると思う