幾原邦彦講座(朝日カルチャーセンター新宿) メモ
幾原「まず記憶にある古い映画の形式はドラマ
時事は新聞の領域であり、映像で扱われてはいなかった」
TVが登場すると、そこにはニュースやバラエティ様々なものを映していたので同時代性があった
皇太子結婚の生中継が最たる例
幾原監督の一番古い映画の記憶は?
アニメ→空とぶ幽霊船
徳島出身と言われているが?
徳島育ちではない 父親の仕事の都合で引越しが多くて地方に長くいた
親に連れて行ったものではなく自発的に観に行った初めての映画は日本沈没
(子供達の間で「日本沈むらしいぜ!」と話題になっていたとか)
73年〜週末ブーム
"戦後"のイメージを人々が忘れた頃に映画のディティールが焦土を想起させる
ノストラダムスも(読んではいないが)信じていた
藤津「99年に自分はどうなってると思いましたか?」
幾原「自分には子供がいると思っていた(笑) 子供に何を伝えようとか考えていたかな」
70年には万博があった
その当時トラックにはねられ死亡する子供が多かった バイパス道路が無くて家の前を大型トラックが日常的に走っていて、危ないなという印象(交通戦争)
幾原「小学生の頃は宇宙戦艦ヤマトが始まり、それまでテレビマンガ、漫画映画だったものに初めて視聴者側の言葉としての"アニメ"が広がった」
藤津「その由来は当時ヤマトのプロデューサーが漫画原作ではなくオリジナル作品だから漫画と呼ぶのに抵抗があったためアニメという言葉を用いたから
幾原「テレビマンガや漫画映画は子供で卒業するものというような印象があった」
藤津「 アニメであるヤマトは若い人向けにモダンなイメージを付けて世に送られた」
幾原「ヤマトの時期がちょうど映像作品のディティールを考え始める時期でもある
あわせて洋画のジョーズが公開された その当時の映画はどんな怪獣や宇宙船が出るのだろうというようなある種イベントだった
ジョーズを観てから米映画のスケールの大きさに驚いた
ジョーズを皮切りにハリウッドに傾いてくる印象がある」
幾原「この頃の自分にはまだ映像の仕事につくビジョンは無い」
幾原「万博はメディアジャックされているぐらいの印象 人生の公的のイベントの中で一番の盛り上がり ディズニーランドも無かったし
行った人達はみんな凄く疲れたとばかり言ってたので行かなくてよかった」
藤津「トイレが少なくて大変だったらしいですね」
幾原「未来都市のイメージが高度経済成長の熱とリンクしていたのも盛り上がりの要因の一つだろう」
60年代後半、ヌーヴェルヴァーグもTVの登場によって斜陽化していた頃
その頃のTVは若い人のためのコミュニティを作るような働きをしていた
70年代に入ると学生運動の熱は冷める
幾原「想像ですけど、サブカルというものは70年代から始まったのだと思う それ以前の演劇や映画は作り手にとって変革を促すための装置だった 楽しんだり評価するようなものではなかった そうなったものがサブカル なので60年代の人達とは熱量が違う」
『太陽を盗んだ男』
この映画の監督、スタッフ達はまさに60年代の運動の人達 この映画の目的として俳優や女優に自分達の主張を代弁させていた 作り手側が自身の運動の時代を総括するために作った映画 制作途中の仮題は"日本対オレ"だったほど 映画の中で今度こそ日本に勝つというような熱があった 作品全体としてはその熱量が一回転していて、当時の主張に対する今の制作者の回答として「子供の駄々だった…」という自己言及が成されているので面白い エンタメでありロマンチックな映画
70年からはマニアックな映画(=評価を得るための内容のつまらない映画)が出てきた この年代にはメディアと若者との間にズレが生じていた 徐々に映画は客に媚びた内容のもの、ケレン味のある物に二極化していた そんな中で角川映画の登場は鮮烈だった 当時の流れとして映画興行はTVメディアを敵対視していたのだが、角川はTVスポットを毎日流したりと積極的にTVメディアを利用していた 代表作の"犬神家"はゲゲゲの鬼太郎にも通ずる土着的(村の因習等)な設定で、当時そうした価値観を古い物だと認識していた世間に不意打ちを与え、戦中〜戦後の日本の雰囲気を客に想起させた
当時TVメディアは戦中〜戦後を総括して語りたい機運があった
藤津「ヤマトは戦中派の大人と、真ん中の世代を飛ばして若者に受けた作品 真ん中の人達は戦争に絡めて観てしまい、楽しめなかった」
若者にとってヤマトは戦中〜戦後の日本と繋がれるファクターだった
"太陽を盗んだ男"はピンポイントに70年代版安保だった
幾原「個人的な印象だがベルばらの作者の池田さんも学生運動に身近な人だった その決着を漫画で付けようとしている 女の人が男装して→革命をおこそうとして→挫折する という流れは自分の体験を記したある種のメタファー」
79年にはその頃の時勢を反映した作品が二つ、「金八先生」と「テラへ」がある 60年代、若者が社会を攻撃する時代から、(偏差値教育の導入により)子供が大人に管理され仕分けられる時代になった "テラへ"にはSD体制という「大人からの評価で子供の価値が決まるようなシステム」があり、これは現実の偏差値教育をなぞらえたもの 『SD体制からはみ出る超能力者の少年が出現する 彼らは地球人と敵対しながら地球を目指す…』 ベルばらと同じように革命のロマンが含まれている
藤津「余談だが(テラへの作者の)竹宮さんは地方の学生運動の流れを見るために上京を1、2年遅らせたらしいです」
上野「幾原監督の作品によく学園を舞台に選んでいる理由はなんですか?監督にとって学校はどういった印象ですか?」
幾原「居心地の良い所ではなかった 中学〜高校は特に 大学はそうでもなかった 今にして思うと、それは自分が空気を読めなかったからだろう 70〜80年の頃は学生運動とは違う意味で(政治的でない意味で)学生が荒れていた 今の時代と自分が学生の頃は個人の個性を尊重せず、抑圧的だった 男女平等はなかったし、大人に選ばれて会社員になるというような将来しか選択肢になかった 暗にそこから溢れたものは不幸だと言われているようで怖かった 狭い時代だった」
その頃のメディアの状況は、キャスターに政治的意識が必須とされていた 今のように"自分"をだせなかった
上野「自己表現したいというようなことは無かったんですか?」
幾原「自己表現したいというのがサブカル感覚なんですよ」
80年代は糸井重里がスターだった 美術という言葉以外に現代アートやグラフィックという言葉の登場 それまでは絵画で食っていくのは一握りのすごい画家だけだった 広告ブームによりそれまでに無かった雑誌、TV、映画などのクロスメディアが起こり、力をうんだ
昔は今のようにインターネットが無いのでぴあやプレイガイドジャーナル等から映画の情報を得ていた
60、70年代の映画は昔のものとして80年代頃に観た 寺山映画も80年代
80年代の日本は60年代の運動の時代から10年の空白があったので、情報誌を頼りに映画を観ることでしか分からなかった 1本1本の映画が大切だった
『田園に死す』
はどこかの大学の学園祭の映研で観た 観た時は「ついに観たぜ!」 「こんな所でこんな映画観てる高校生は俺ぐらいだろう 俺のインテリ加減は凄い!」と思っていた
寺山映画は分かりやすい 何度もテーマを口にする 寺山は学生運動に興味があったのではなく、その熱を利用して映画を作るエンタテイナーだった
寺山映画も自分達の時代を総括していた メディア人、ヒーローといったものを虚構にして面白がるというようにしていた "田園"を当時観た時はテーマはよく分からなかったが「パンチあるな」と思った
『書を捨てよ 町へ出よう』
は運動の終焉を描いている